「定義と名づけ方から見えた展望」「定義と名づけ方から見えた展望」の中にある;再掲: ここ以外に載せたのは6月7日: 加筆#2:以前少し書いた「定義と名づけ方うんぬん」は、いつものようにざっと書いただけの単なるメモなので、読み返してみるとわかりにくい。それをもうちょっとわかりやすくしてみよう。題して「定義と名づけ方から見えた展望」。 自然工学、科学や工学、などにおいては、定義という事柄とその内容がどうしても必要となる。ただし科学においては、かなりあやふやでよいが、研究し試行錯誤して進んでいって究極的には百パーセント正確で精密な定義に至るべきである。 (ここらのところはいくつかの層・分類、ばあい分けをもっている。それら内容が私の頭の中ではイメージ・感じ・観念・心象として一瞬にして浮かんできたのだが、それらをすべて正確に書くとなると、読んだばあい、非常にわかりにくくなるということまで思い浮かんだ)。 (それらの内容の、イメージ・感じ・観念・表象・心象というのは、映像ではない。まさに感じである。このばあい、骨格的な要素が強ければ概念という単語を加えることもある)。 さて、自然工学や工学においても研究においては、試行錯誤して進んでいって究極的には百パーセント正確で精密な定義・設計に至るべきである。で、科学だけはいつでも発展途上というか未完成のまま進むだろうから、特にそのことが強調される。 一方、工学においてもそうではあるが、研究成果から実際に装置や機械などをつくるとなると、定義・設計は百パーセント正確でなくてはつくれないし、できたものは働かない(工学や自然工学においては、定義と設計は同値である)。 定義・設計がいいかげんでもつくれることはつくれるが、できたものは働かない(いいかげんに働くケースもあるだろう)。自然工学においては、もうすでに大自然というか超越存在というか天というか、が、自然工学的につくりあげている存在というか対象というかものやことが多い。 たとえば人間とその心脳など。ここで多いとしたのは、まだできあがっておらずこれから先に現れる存在もあるだろうからである(それらの定義つまり設計は、既になされているものと、これからなされるものがあるだろう。試行錯誤で自然にでき上がっていくものもあるだろう)。 で、ここですでにつくりあげられている、人間とその心脳に着目しよう。それがどうやって定義・設計されつくり上げられたのか、または試行錯誤してでき上がってきたのか、あるいはその両方が絡み合ってここまできたのか、 あるいはそれ以外の要因があってここに至ったのか、それらのどれなのかはここでは論じないが、人間と心脳はもうすでにでき上がっていて働いている。その心脳を解析すると、定義・設計が抽出される(それは、発明のやり方で心脳の定義・設計―規格~仕様~モデルとシステム明細―を推測し、実験で検証するということと同値になる)。つまり、心脳にはすでに定義・設計がある。 さて、ここで、場面を変える。定義には大枠的定義と、精密な定義とがある。その中間もある。設計についても同じことがいえる。で、工学、自然工学以外の分野では、定義はいいかげんでいい(科学について既述したこととほぼ同じことがいえるだろうが)。 で、心脳に戻る。そういうふうに、百パーセント正確に定義・設計をもつ心脳であるが、でき上がっている心脳は、言葉を好き勝手に扱う・操ることができる。 勝手に、いいかげんに、てきとうに、どうにでも、好き放題に、きままに、なんとでもめちゃくちゃに、心脳は、言葉を扱う・操ることができる。覚えこんだ言葉がズラズラでてくるケースもある。 ちなみに、さまざまな訓練と鍛錬を続ければ、慎重に思索考慮して言葉を操ることもできる。さらにさまざまな訓練と鍛錬を続けていけば、思索において、感じ・イメージがでてくるようになり、でてきたそれらに言葉を当てることもできるようになる。 ほかにもさまざまあるだろう。ただし、書くのと話すのとではそこらに大きな違いがあるが。 さて、少し前にもどる。であるから、定義がはっきりしていない対象について議論すると、議論はめちゃくちゃになることが多い。だいたい、難しい・こみいった内容の他人の話というものは、理解するのが難しい。自然科学の分野でもそうである。 あのシュレーディンガーも、同僚の講演を聞いたあと、彼に向かって「あなたの講演は私にはひとつもわからなかったということをあなたはご存知かね」と皮肉たっぷりに言ったそうである。ほかにも同じようなことを書いている物理学者たちがいる。 それによると、講演のあとの儀礼的拍手の習慣がいかん、ともいっている。で、場面を変える。名づけ方であるが、名づけは、できるだけ正確な方がいいのは当然である。すでにある言葉を援用したりして、できるだけ正確に名づける。 それがムリなばあいは、できるだけ適切な新しい用語などをつくり上げる。で、ここでいえることは、定義への名づけはいいかげんであっても、工学的にでき上がっているものは働くということだ。たとえば、コンピュータを例にとる。 定義・設計の結果の各部品や部分部分の名づけ方はてきとうでいいかげんであっても、コンピュータは働く。たとえば、A、B、C・・・、と名づけてもいい。 脱線ついでにいうと、コンピュータはプログラムどおりにしか働かない。ただし、プログラムで、乱数やランダムのような状態や結果を示すことはできる(脱線と書いたが、これは、心脳との対比を考えると脱線ではない)。 しかし熱暴走などすると、プログラムどおりには働かない。で、心脳は、コンピュータとは大きく異なる。 場面を変える。さて日常会話のようなレベルのものは除いて、議論などにおいては定義をもつ内容に言葉があてられた項目が複数はいってなされるわけだ。それら定義がいいかげんであって、しかも名づけもあやふやだとすると、議論はフニャフニャグチャグチャのドロドロ(不毛)になるしかない。 もちろん、そういった定義たちを試行錯誤ではっきりさせていき、しかもいい名づけをしよう、という議論なら問題はない。建設的である。つまりは、まずはそこから始めるべきケースが多いだろうということになる。ただし、それもハードの上にハード、である。 (以上、書きなぐりだが、いつものように、書くのが面白かった。この内容は、いろいろな項目をふくんでいる。いくつかの研究対象をも含んでいる。いつかこれで一本書くのもおもしろそうだ)。 以上、「定義と名づけ方うんぬん」「定義と名づけ方から見えた展望」は、心脳科学(仮説)関連の思索からでてきたものである。 |